オモチャ 1993.4.8 森章 |
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― 子供の主体性が成長する為に ― オモチャは、子供を遊ばせてくれます。しかし、限界があります。一緒に考えてみましょう。 (1) (オモチャの)汽車は、ヘリコプターにはなりません。いつまでも、汽車のままです。 木のかけらは、ヘリコプターになるし、汽車やバスにもなります。だから、子供の自由な発想の展開に、ついてゆけます(=発想の展開を制約しない)。 「こんな木のかけら」と思う方もいるでしょう。でも、〈子供への愛情〉が、親にささやきます。なぜ? どうして、「こんな木のかけら」が、(この子にとって)大切なのだろう?と。 子供にとって、その「木のかけら」が大切な理由は、なんでしょうか? それが、[自分の創造・創作の手段として役に立つ]からです。 自分の発想に無関係な、たんなる物としての 「木のかけら」であれば、子供は大切にしないでしょう。 親からみれば、捨てたくなるような、たんなる物としての「木のかけら」でも、子供にとっては、せっかく見つけた宝物です。 (2) クレーン車の遊びが発展して、別のことがしたくなった。しかし、これはクレーン車で、この操作しかできない。それを、ヘリコプターとして使うことが出来ません。 また、クレーン車として、特定の型になっているので、〈視覚〉がじゃまをして、ヘリコプターとして使うことを、拒否します。 (よく見かける)オモチャは、型・色ではっきり特定されてるから、また、遊び方が非常に固定されているから、そのパターンでしか遊べません。 クレーン車は、あくまでも、何時までたっても、クレーン車なのです。だから、しばらくするとあんなに楽しく、(子供を)遊ばせてくれたオモチャが、つまらなくなるのです。 *** わき道―1 *** ある親は、「せっかく高価なオモチャを買ったのに、たった二日で飽きてしまって...」と嘆きます。 親から見れば、高価なオモチャは、財産として貴重でしょう。しかし、それは〈遊びの本質〉からいって、必然的な結果なのです。 *** わき道―終わり *** (3) このように、ああだ、こうだ、やっていると―。 子供は、それ以外の遊び方が出来ないことに気がついてきます。「遊び方が、(始めから製作者によって)特定されていること」に、(無自覚でしょうが)気がつきます。 子供にとって、「その遊び方しかできない」ということは、「〈自分自身の遊び〉を、自分自身が支配出来ない」ことを、意味します。 言い替えると、そのオモチャが、子供自身を(遊ばせないように)拘束してくるのです。 子供は、自由に(自分の創作の主人公に)なりたいのですから、 (子供自身を遊ばせないように拘束してくる) そのオモチャと、 「子供の(これからやる新しい)遊びの構想」とは、矛盾するようになります。 そして、その遊びに飽きると、そのオモチャから離れることになります。 「オモチャに飽きる」と言うより、「その遊びに飽きる」と表現した方が、子供の気持ちに近いかもしれません。 *** わき道―2 *** 子供が、すぐ「オモチャに飽きる」のを見て、 「うちの子は、飽きっぽい」のではないか、と心配するのは、親の気持ちとして分かります。でも、私は、以下のように解釈したいのです。 {子供が、その遊びに飽きて、そのオモチャから「離れられる」}ということは、その子供が「そのオモチャに従属することを、拒否すること」、子供の主体性が、維持されていること、を意味している、と。 アルコール依存症になった人は、なかなかア ルコールから離れられないそうです。 「オモチャがないと遊べない」という話を、よく聞きます。 私は、「オモチャ依存症」という言葉を、使用したくありません。しかし、そのような状態が長く続くのは、〈子供の主体性の成長〉の点で、好ましくないと思います。 *** わき道―終わり *** (この原稿は、当時、光が丘第八小学校PTA会長であった森章が、光が丘児童館発行の「ひかりがおか かわらばん」No11 1993年4月19日発行に掲載したものです。) ページの先頭へ 目次に戻る |