「かえして」って言ってごらん
1996.11.16  上原牧子


1995年10月頃のことです。長女の千裕が2歳8か月のとき、育児の会の中で遊んでいるときにあったことです。

千裕、鳥の羽根を拾い、気に入った様子。敷物の近くの地面に置く。仲良しの芙美香ちゃん、その羽根を拾う。ベビーカーに座り、気に入った様子で眺めている。千裕、置いた羽根がないことに気が付き、泣く。芙美香ちゃんの手にそれがあることに気が付く。「ウワーン!」と泣きながら芙美香ちゃんに向かう。「イヤ!」と芙美香ちゃん。

私、置いた場所が地面だったので、それが悪かったと思い、新しい羽根を探そうと促す。「羽根、きっとあるよ。新しいの探しにいこう」とやさしげに私。千裕、泣きやまない。この様子を見ていた森さん、「それじゃあダメだ」とひとこと。そして千裕に向かって、「かえしてほしいの?」で、千裕はコクンとうなづく。森さん続けて、「『かえして』っていってごらん」と語りかける。千裕、泣き顔で「かえして。」と芙美香ちゃんに言う。芙美香ちゃん、「はい」と返してくれる。

私は、子供が自分の気持ちをそのままストレートに表現するように導いていなかった。あの「ウワーン!」は「かえしてほしい!」わけで、その気持ちを押しつぶさないで表現するように森さんは導いてくれた。

地面に置いたあなたが悪い、とは、私の先走り。トラブルを面倒と思う気持ちが底にあったと思う。自分の子に我慢させたら事は済む、という安易な気持ちから出た言葉、行動。千裕にとってみれば、ホントの思いを押しつぶされた満たされない思いが残っただろう。「拾ったのは私。ちょっとおいといただけ。これは私の」が、ホントの気持ち。

まずは自分の思いをまっすぐに表現すること。そして、それで思い通りにならないときは相手の言い分をよく聞くこと。そうしてから、置いておいた場所がどうだったか、羽根はいっぱい落ちているかもしれないことなど、子供たち自身からうまれてくるのがいい、と思った。

互いの正当性を表現しあう前に、親が決めつけで結論を示し、平穏にその場をやり過ごそうとするのはよくない。つい波風立たぬよう、自分の子の主張を押さえる方向へ持っていこうとした自分は、いったい今までどんな生き方をしてきたのか、と思うと、空恐ろしくなった。私は、自分の子の気持ちを引き出せてないし、相手の子の気持ちもこちらの思いこみで過ごし、なにも聞き出そうとしていなかった。たとえダメでも、自分の気持ちを、正しいと思うことをまっすぐに表現することを、森さんは促してくれた。子供に接することはイコール、自分自身の生き方を示していくこと、と実感した。

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「かえして」って言ってごらん補足


昨年、はだしんぼ・光が丘を見学していたYさんが菅野さんに「あのマニュアル(記念誌)の通りに、近くの公園で同じできごとがあった時に「かえして」って子供に言わせてみたけれど、返してもらえなかった」と話したということを、後日菅野さんより聞きました。
この原稿には書かれていませんが、私と上原さんとは、長女が3か月の頃からのお付き合いで、同じマンションの同じ階に住んでおります。Yさんの言っていたことを上原さんに伝えたら、彼女は次のような文章を寄せてくださいました。

2003年9月1日 楢木依子(ふみか母)

ふみかちゃんとちひろは0歳からのお付き合いがありました。この出来事があった頃も、週に何度かは会って、よく一緒に遊んでいました。
このころ買い物の途中などで公園に立ち寄ることがありましたが、行き当たりばったりの関係では、「かえして…」とはなかなか言えませんでした。
「かえして…」という言葉が生きるかどうかは、そのときの相手との関係や状況によると思います。
 この言葉を発する行為そのものよりも、こんな言葉を出せるような人との関係作りが大切なんだなあ、と、ちひろが小学5年になった今、改めて感じます。

上原牧子



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