幼稚園の「グループ分け」
 ―互いに<人間として>成長し合う集団のために―

幼稚園のクラス通信(「ほしの子通信」)で、担任教師が親達に問題提起した文章に、当時子どもを通わせていた森さんが答えたものです。この原稿を何年も前に読んだメンバーから、「長年かかって、理解できつつある。是非これをHPに。」という声がでました。
幼稚園のクラスで起こったできごとにこたえる形になっていますが、今読み返してみると、いろいろな要素が含まれており、副題をつけるのに悩みました。もっといい副題があったら、教えてください。



1994 元光が丘さくら幼稚園教諭 春日清香
 ―クラス通信「ほしの子通信」より―


新しいグループ
今回は好きな友達と一緒のグループをつくりました。殆どが男の子同志、女の子同志のグループになりました。そのせいか、グループの名前を決める相談では、それぞれが自分の気に入った名前を言ったり、友達の意見を聞いて変えたりしながらも、きちんと互いに納得している様子が伺われ、感心しました。消極的なSちゃんも安心して自分の考えを言っている姿を見て、好きな友達同志にしてよかったな、と思いました。この経験をもとに、今度はいろいろな友達との中でも自信をもって自分の考えや思いをいえるようになってほしいと考えています。

さて、そのグループを決めた時にお休みしていたS君がいます。
翌日、お弁当を食べる前にS君のグループを決めることにしました。
 「やだー。」
 「いれたくなーい。」
 「ぶつからだめ。」
そんなみんなの声を聞いて、悲しくなり、いたたまれなくなったS君は廊下を走り、絵本の部屋へいってしまいました。
春日「S君もほしの組の一人だから、S君のグループが決まらないとお弁当は食べられないな。」

みんな「・・・・・・・・。」

春日「みんなも友達に『だめ』って言われたらどんな気持ちがする?」
みんな「やだ。」
   「かなしい。」
しばらく間が続く・・・・・・。

D君「いいよ。いれてあげても。」
他にもあっちこっちで「いれてあげてもいい。」「ぶたなければいい。」などの声が出てくる。
と同時に「絶対いやだ。」という声もでて、それぞれのグループでもめ始める。「いいじゃない。」「かわいそうだよ。」「ぶつからだめ。」

しばらくその状態が続くが、S君は「いれてもいい」という声が出始めると、いつのまにか戻ってきて、廊下の出入り口の所を出たり入ったりしながら皆の話の様子をしっかり聞いています。

そのうち2つのグループの意見がまとまり、S君をいれるということになりました。その途端、S君は踊りながら部屋に入ってきたのです。もう、嬉しくて、嬉しくてにこにこの笑顔です。その姿をみて他の子も思わず笑ってしまいました。
春日「S君、時々ぶっちゃうこともあるよ。泣いたり、皆の邪魔することもあるよ。それでもいい?」

Mちゃん「いいよ。ぶたれたって。ぶたれることなんてなんでもないよ。先生。」

この一言を聞いて、本当に私は嬉しくなりました。
S君もそのやり取りを聞いていて、ありのままの自分を受け入れてくれた友達の言葉をじっとかみしめているようでした。

その後、2つのグループのうち、S君が好きなグループを選び、ほしの組全員のグループが決まりました。

このことを通して、いろいろなことを考えました。
ぶつから嫌だという気持ちもわかる。友達から「だめ」といわれる悲しい気持ちもわかる。「みんなで仲良くしてね。」と言葉でいうのは簡単だけれど、見かけだけの仲良しなんて大人の自己満足だ。
心の中で「遊びたくない」と思いながら大人の目を気にして「一緒に遊ぼう」なんて言える子供にはなってほしくない。と思いながらやっぱり仲良く遊んでいる姿を望んでいる私だったのです。
ケンカもなく、皆が楽しく過ごせることばかりに気をとられていたようです。
でも、Mちゃんの言葉を聞いて、はっとしました。
人はいろいろなのです。そして、そのいろいろな姿を受け入れることが大切なのだと。
子供たちは幼稚園にきて、はじめて、その「いろいろ」に出会っているのです。

皆さんはどうお考えになりますか?
感想があったら、ぜひ、お願いします。



「感想」−−「ほしのこ-1994.9.13」を読んで−−

さくら幼稚園 春日清香様
                     1994年11月3日
                                  森 章
[はじめに]
私達夫婦は、「子どもが、人間らしい人間に育って欲しい」と願いつつ、日々の子育てをしています。
                  保母さんへのお願い
春日先生の保育指導は(私達にとって、この最も重要な点で)信頼できるので、とても感謝しています。

信頼している。だからこそ、先生の努力に答えようと、より一層の「教育内容の発展」を期待しつつ、この感想文を書きました。

[一]個々の論点
[1]子ども達の言動;「やだ−。」「いれたくな−い」「ぶつからだめ」について(後の発言も参照にして)

[感想]
(1)子ども達は、<素直な感情>を持ち、よく育っている、と思いました。

(2)<自分の正当な利益を(自分の手で)守る>点で、ちゃんと<主体性>を身につけている。

(3)自分の意見を主張するときの<表現>も、物おじせずのびのびとしています。

(4)事の善悪も、分かっているようです。頼もしく、思いました。

(5)討論も、できるようですね。素晴らしい。

[意見1]
ほしの組の子ども達が、萎縮しないで、伸び伸びと育っていることを、私達 は高く評価しています。

(1)「萎縮しない」のは、春日先生が、「子ども達が主体性をもって活動できる」ように、常に色々と配慮した保育をしている、からだと思います。
「先生の顔色を伺う」ような子に育っていれば、(子ども達は)「拒否」が出来たでしょうか?
つまり、「拒否の発言」は、春日先生の保育の結果であり、誇るべき成果と考えるべきです。

(2)しかし、春日先生は、「子ども達の拒否発言」を、どうもそのようには、 受け止めていないようです(文面から推量して)。

(3)(多分、無意識からでしょうが)「<S君への、先生の思いやり>を、<子ども達の主体性の尊重>より、優先した」ように、読めました。
「一緒のグル−プに入れない」ことを、「差別行為、あるいは、いじめ」である、と判断したのかなあ? とも推測しました。
この点は、後で論じます。

[意見2]私は、子ども達のこのような発言を、断固支持します。

理由:
(1) このような発言や態度は、<自分の正当な利益を侵害する>「暴力」や「不当な行為」に対する、抗議であり、正当性を持っているからです。
「暴力」に対して、「暴力」で返していない、点も注目しています。

(2)この行為は、「不当な暴力」を廃絶していく上で、大切なことです。
善い行為ですから、私が教師なら、大いに誉めて、励まして上げるでしょう。
*行為の社会性を考えても、支持できる行為と言える。

(3)先生の言う通りにならないのは、悪(=子どもにとっては、先生による押し付け)に対する「不服従」の精神から出たものでしょう。
先生が誤った場合には、従わないのは、良いことだと思います。
*昔と異なり、現代では、教師と生徒との関係は、支配服従の関係ではない。
拒否反応をした子の行為は、それを、実証し、確認する行為です。

(4)上記の理由は、いずれも人間的なものです。子ども達の「いれたくな−い」という主張は、人間性から見て、正しいと判断しました。
(つまり、教師として、支持すべき発言だと思います。)

[意見3]この事例は、「子ども達の<集団自治>」の問題として、処理すべきである。この事例を、「いじめ」の問題として、取り扱うと、混乱が生じるでしょう。

理由:
(1)「好きな友達」と一緒のグル−プを作る場合には、「好きではない友達」の「受け入れ」については、ある<限度>が生じるのは、当然である。

(2)この事例の場合は、<限度>が争われているように思う。
その理由:例えば、「ぶたなければいい」と言う子は、
・「人はいろいろなのです。そして、そのいろいろな姿を受け入れること」(春日)には、同意しているようだ。
しかし、この点を、この子は問題にしているのではない、と思う。
・この子達は「S君の行動は、この子達の我慢の<限度>を越えている」 と主張しているように、(私には)見える。

(3)つまり、S君をグル−プに「受け入れ」る為の条件を、問題にすべきであった。
・「拒否」の理由を詳しく訊ね、子ども達と会話をしながら、「子ども達」と「S君」に、色々考えて貰う。
*但し、質問の仕方が、少し難しいかも知れません。
・すると、「S君の日常の行動」がこの子達の<我慢できる限度>内であることが、「受け入れ」の条件であることに、話は落ちつくと思います。

[意見4]解決の為に
#(S君を含めた)子ども達全員で、話し合うこと。その内容は、
・「S君の行動」の具体例を題材にして、受け入れられる<限度>について話す。
(これは、子どもによる、子ども達のための自治活動=立法機能です)
* <集団自治ができること>は、独立の(自分自身以外にはなにものにも隷属しない)人格としての大人に、要求される、重要な(大切な)能力の一つです。
言い替えれば、「教育の大きな課題」の一つです。

・もし、その結論を、「ル−ル」や「約束ごと」の形で、言語表現できたら、もっと素晴らしい。(=成文法の作成)
#子ども達には、<この事例を、完全に処理できる程の>「自治能力」がそなわっていない、と思われるので、<適切な助言>が必要です。
但し、適切な助言は、かなり難しいでしょう。
  注)解決方法を、十数人の親に質問してみました。大人にとっても難しいようです。
#(S君を含めた)子ども達全員が<人間として>成長するための、いい機会にして欲しいと思います。
   →個々の子どもが<人間として>成長するために(後段参照)

[2]先生の行動・姿勢;「拒否反応をした子」に、説得をし(=態度を改めるように働きかけ)ている点について
[意見1]
(1)春日先生の保育は、・・
<「イヤ」が言えない子>将来、問題が →[8]を参照

(2)<思いやり>でユガミ
           「かえして」って言ってごらん<解説>
<思いやり>は、受けて嬉しいものです。
しかし、他人に<思いやり>を要求する場合は、ガラッと状況は変わります。マズイ場合が、結構多いのです。
特に、弱い立場の人に<思いやり>を要求する場合は。
         参考) 中国思想 「仁」
  ※中国思想の仁については、別の機会に。
  
[意見2]
「先生の顔色を伺う」ような子に育っていないことを、先ず喜ぶべきでしょう。
 「やだ−。」と、拒否反応をした子を、誉める。
・ 子ども達が、S君をグル−プに入れるか否かについて、「先生にお任せ」しなかったことを、受け身にならなかったことを、誉める。
・ 「自分の利益が侵害されることを、拒否し」「(態度だけでなく)明確に意見として主張した」ことを、主体性を堅持したことを、誉める。

[3]春日「S君もほしの組の一人だから、S君のグル−プが決まらないと、お弁当はたべられないな。」について
#(1)これは、S君をどこかのグル−プに入れることを、当然の前提にした発言です。
しかし、「今回は好きな友達と一緒のグル−プを作る」方針ですから、「ぶつからだめ」という発言は、正当で、支持すべきです。
注 反対の理由が「人種等による差別」その他であれば別問題です。
子どもにとっては「S君が、自分達のグル−プに入ること」は、重要な問 題なのです。
どの子も、「S君が、自分達のグル−プに入ること」に反対ですから、S君は、グル−プに入れません。
これは、当然の結果です。

つまり、上記の方針の下で、子ども達の自主性を認めるならば、「S君をどこかのグル−プに入れること」は無理なのです。
教師が「自分自身が矛盾している」のに気がついていないのです。

#(2)「S君もほしの組の一人だから、・・」
「S君をほしの組」にいれたのは、子ども達ではありません。決定したのは、先生達です。子どもの判断で決まったのではありません!!
そして、S君を「好きな友達」として、認めるか否かは、子どもの判断で決まります。

#(3)「・・お弁当・・」は、子どもにとって、脅迫的な要素になりうる。
子どもの反応はどうでしたか?
子どもは、先生の日頃の言動から判断して、先生を信頼しているから、この場合も(少し変だなあ、と思ったかもしれません)従ったのだと思います。
しかし、”信頼”は、(批判する力がない場合は)しばしば”盲従”という効果を生みます。
つまり、子どもは、「先生の意見に反対すべきなのに、先生に従ってしまった」のです。

#(1)(2)(3)のことにより、「教師は子どもに、かなり無理な押し付けをした」と言える。

[春日先生へ質問]
・一方には(「拒否反応をした子」には)説得をして(=態度を改めるように働きかけ)、他方には(S君には)<態度を改めるように働きかけ>ていない(文章では、出てこないので推量です)ようです。
これは、”不平等な取扱”ではないか?

[4]「ありのままの自分を受け入れて・・・」について
=論点がズレている。この問題ではない。
  許容限度の問題である。

(1)「ありのままの自分を受け入れてくれた友達」の態度を誉めるのであれば、先生とS君は、「拒否反応をした
子」を、「ありのまま」に、「受け入れる」べきではないか?

(2)「人はいろいろなのです。そして、そのいろいろな姿を受け入れることが大切なのだと。」
この見解からすると、「拒否反応をした子」を「受け入れる」べきである。そうしないと、筋が通らない。と思うがどうか?「ぶつからだめ」と発言した子も、「ありのままの自分を受け入れて・・」欲しい、と訴えたら?

(3) 「ぶたなければいい」
M「いいよ。ぶたれたって。」
先生に、迎合?

[5]「そんなみんなの声を聞いて、悲しくなり、S君は廊下を走り、絵本の部屋へいって・・・」について
* 私は、<S君が、自力で、成長する>絶好のチャンス、と考える。
自力で、成長できない場合は、
私は、教師や親達が<S君を教育する>場を、子ども達が提供してくれた(?)、と考える。

(1)友達の力、集団の力−−もしも、友達関係が形成されているならば、

(2)親は、どう考えるのか?−色々ある・・
 例)私の長男(薫)の場合・・・(次の機会に)

[6]春日「みんなも友達に『だめ』っていわれたらどんな気持ちがする?」について
(1)S君以外の子ども達の教育の問題ですね?
・既に友達関係を経験しているからか、子ども達も「友達に『だめ』っていわれたらどんな気持ちがする?」
か、考えることができるようです。適切な質問だと思います。しかし、
・この場合は、「<S君と他の子ども達の間で>友達関係が形成されていたか、どうか」が問題です。
どうも、「友達関係(少なくとも、好きな友達関係)」はなさそうです。

 1 おそらく、子ども達は、S君から『だめ』と言われても
  「かなしくない」のでしょう。

 2 だから、教師が「友達に『だめ』っていわれたら」
  の例をあげて、 ”類推”で誘導しても、この場合は、
  ”類推”が当てはまらないから、<説得>されない。
  その結果、「それぞれのグル−プでもめ始め」たのでしょう。

(2)S君に「他の子ども達との間で、友達関係」を形成する必要を、納得して貰う事が大切だと思います。
この点で、教師のリ−ダシップが必要です。

(3)「ぶたなければいい。」が、S君がグル−プに加入するための条件になりそうですね。

[7]「S君は踊りながら・・嬉しくて・・・」「その姿をみて他の子も思わず笑ってしまいました。」
[意見と疑問]
(1)人を”ゆるす”ことを経験し、またその結果を味わったのは、「他の子」にとって、よい教育効果を残すでしょう。

(2)しかし、討論に参加していなくて、S君は「分かった」のでしょうか?

(3)S君は、自分自身を自己教育できたのでしょうか?

[8]「見かけだけの仲良し」;春日 「心の中で『遊びたくない』と思いながら大人の目を気にして『一 緒に遊ぼう』なんて言える子供にはなってほしくない。」について
春日先生の意見に賛成です。
その理由は:
・そういう人に育ってしまうと・・
(1)本音は自覚している。しかし、自己の考えを、ハッキリ主張できない。
・自己の考えを、ハッキリ主張しないから、相手も判断を誤ることになる。
・人間関係が、(中身の無い、内容のズレた)皮相・浅薄なものになる。

(2)何事にも「ネバナラナイ」で、その結果自分を押え過ぎて、何が自分の本音かを自覚できなくなる。−−ここまで進むと、一種の人格破壊である。
道徳:その時代における、その集団にとって、必要悪
  ※ 「道徳は必要悪」については、別の機会に
・「大人の目を気にして・・」→心や判断の歪みが生じる、−−
#「大人の目を気にして・・行動する自分」と「本音の自分」とが分裂する。
将来、(例えば、思春期に)自分の中で、葛藤が生じるだろう。

  1 外的評価によって、行動が左右されるのは、
   結局、本人にとっても良くない
   →「他の人の意見を、参考にする」のとは、
    本質的に異なる。
    大人も、地位・学歴・権威・・・・惑わされる
     例)結婚、

  2 「自己の、判断力を<高める>よい場面」と
   幼稚園・・教育の場を提供
   <家庭では、できない>
   <多様な人間が集まって・・初めて>
   *「お行儀よく・・」は、家庭でもできる。

私達も、子ども達が「仲良く遊んでくれる」ことを望んでいます。
しかし、他方で、それは単なる「親の願望」であり、「期待」に過ぎないことも、自覚しています。
といいますのは、大人の世界を見れば分かるように、<本音を出し合って>、 しかも<「仲良く」やっていける>ためには、各メンバ−が<素晴らしい人間>に成長していなければ、不可能だからです。
なるほど、「子ども達の人間関係」は、大人の世界と比べれば不純物が少なく、「子ども達が仲良く遊ぶ」ためには、好都合です。
しかし、<子ども達の精神>に、色々な<大人の作った文化>(注)がはいってきているので、「子ども達の人間関係」は、かなりややこしくなっています。

注 テレビや、周囲の子ども達や大人達の行動や会話、を通して

個々の子どもが<人間として>成長するために
(1)子ども達が成長する可能性を信じること。
すると、”急ぎ過ぎ”の弊害=拙速が、・・急がなくなる。

(2)”成長する可能性”が現実のものとして、実現する為の条件を、作り出すことに、工夫することに、重点を置く。

(3)この実践記録を読むと、「(子どもの)人間としての成長を期待し、追求する、教師の姿勢」が、「教師の子ども達への愛情」が、伝わってきます。

「『何が子どもの為なのか?』と言う議論を抜きにして、ただ親の御機嫌を伺うような・・、単なる人気に迎合するような(教師の)姿勢」と異なり・・。

・[教訓]こんなに、いい先生でも、誤る。
だから、親は子に「自分の頭で考えろ!」と教える必要がある。
「先生がいったから、・・・」という理由で、先生の意見を鵜呑みにするようになったら危ない。
 ・ 春日先生の問題提起に親たちの「感想」がなかったら。
「信頼する」ことと、「無批判」とは別・・「おまかせ、」になっては・・。
「一緒に考える」ことが大切。

[一]事実の確認・・分からないことがあります

(1)「S君が、ぶつ」事は、事実か?

(2)かなりの期間継続しているようだ。どのくらいか?

(3)「ぶつ」ことに、相当な理由があるのか? S君なりの理由があるのか?
他の子ども達は、納得していないようだ。

(4)「ぶった」ことについて、園では、どのような処置がとられたのか?
「ぶった」ことについて、S君の親は、どういう見解なのか?
S君本人は、どう思っていたのか?

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